『真夜中の弥次さん喜多さん』のDVDを観た。ずっと気になっていた映画だ。弥次さんと喜多さんはホモのカップルで、薬物中毒の喜多さんを更生させるため、2人で江戸からお伊勢参りに出立するというストーリーだ。しりあがり寿の原作。
わかりやすいストーリー、キャラクターと、ビジュアルを持つ映画であった。
モノクロとカラーの切り替えで世界観を切り替える方法や、コミカルな場面のメイクやせりふ回しについては、これまでにも見たことのある演出であり、正直それほどの新鮮さは感じなかった。
しかし、あの派手な色味の画面と、一見ドタバタ喜劇と見える流れの中に、一瞬ゾッとする場面がときどき差し込まれていたことが印象に残った。
たとえば、薬物中毒の芸人が、子供にお菓子(だったかな?)をすすめて、自分も食べているつもりが、実はそれは幻覚であり、実際には大量の薬物(カプセル)を両手でむさぼり食べていた場面。薬物を食べているその表情は、あくまでお菓子を食べているかのように普通の表情であるのに、だ。
本人はいつもの日常だと思っていることが、真実は極度に異常で悲惨な出来事であるのに、本人はそれに気づいていない…。これは恐ろしいことだ。
もし、私が実は異常者であって、まわりからそれを知らされておらず、何も疑問に思わないまま悲惨な結末に向かって歩いているとしたら?
そう考えると、言い知れぬ怖さを感じる。
また、喜多さんが、森の中で横向きに寝転んで、眠っている場面。その首筋には幻覚キノコが何本か寄生しているのが見える。幻覚キノコはいかにも「作り物」の、カラフルで大きなもので、ここまでは普通。
しかし、ある人が、その喜多さんの体を足でごろりと転がしたとき、今まで地面についていた体の側面に、小さめの幻覚キノコがびっしり生えているのが見える。
これには、かなりゾッとした。最初から見えていたキノコが、いかにも「作り物」であったために、観ていた私が少し油断していたこともあっただろうが、地面側のキノコの生え方が、反対に「リアル」であったことが衝撃を生んだ。
やや勝手な解釈を含めてこの場面を考えると、最初から見えている「作り物」のキノコは、現実をデフォルメした姿であり、見る人はそれをどこか他人事として捉えている。一方、体を転がして初めて見える「リアル」な生え方のキノコは、言い訳のできない「現実」の正体を、見る人に逃げ場のないように直視させ、それが持つ悲惨さを、気づかせ・思い知らせるものだったと思う。
そのように考えてみると、弥次さん喜多さんの旅のテーマのひとつとなっている「リアル」の追求という点において、映画のなかで一貫した演出がなされていることがわかる。上記にあげたほかにも、二人がこうだと思っていることが、実は現実を直視したくない気持ちから、自分に都合よく適度に美化・解釈したものであるとわかる場面がいくつか出てくる。
この映画における「リアル」とは、まぎれもない現実(ときに悲惨である)そのものを指している。
しかし、私たちが日常生活だと思っている毎日の出来事は、実はそんな現実を正面から直視したものではなく、適度にぼかして見ているものかもしれない。決して、目をそらしているわけではない。見えていないわけでもない。ただ無意識のうちに、「見ようとしていない」のだと思う。
ここで、映画から立ち返って、
本当に日常生活を送る上では、起こる現実の出来事すべてに対してがっぷり四つに組んでいたら、生きることが難しくなってしまうだろう。無意識のうちに「見ようとしない」ことによって、一面では心の平和や健康が守られていることも多いと思う。どこかで見たエッセイで、夢を追い続ける人について、「夢を見続けるよりも、現実を見ることのほうが難しい」と評している人がいたけれど、本当にそうなのだろう。
他にもいろいろ解釈のしどころがあって、面白い映画だった。
[映画]
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